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アミとまこ。最期の日。 [free]

突然のお知らせになりますが、41日(金)、21時ごろ、愛するアミが永眠致しました。13歳と2カ月でした。

エイプリルフールに起きた、本当に嘘のような出来事でした。

きれいな顔で、本当に本当にかわいい、寝ているような顔でした。元気いっぱいだったアミは私たちに与えるだけ与えて、老後の世話のようなこと(お返し)を一切させず、あっという間に旅立ちました。なかなか集まれない家族も、翌日が土曜ということでお別れのために全員が集まれました。逝くタイミングさえもアミが見計らってくれたのかなと今は思っています。(アミからの最後のプレゼント)

アミをかわいがってくれた皆さま、アミに代わり、これまでの愛情に感謝申し上げます。ありがとうございました。

そんな皆さまには大変申し訳ございませんが、アミとのお別れは家族だけで行わせて頂きましたこと、ご了承くださいませ。


この記事を書きながら、実感がまた湧いて、花粉症なのかなんなのかわからないくらい顔はぐしゃぐしゃであります。ブログ「アミまこ」ということで、アミを弔う意味と、私自身の気持ちを吐露させて頂く意味で、回想録を書かせて頂きます。(自己満足ですね)

たぶん、長くなるので、興味のない方はスルーしてください。

改めて、アミを愛してくださった皆さま、本当に本当にありがとうございました。


【アミとまこの回想録】
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1998
2
私の大学受験が無事終わってすぐ、母に連れられて、ぬいぐるみのようなアミが我が家に。(生後1週間)外出していた私に犬が我が家に来たという連絡がきて、急いで帰宅すると、玄関に置いてある段ボールの中からひょこっとアミの顔が。ドキっとしたのを覚えています。なぜなら、その顔はまるで人間のような表情だったから。(柴犬の雑種と聞いていたので、想像以上に目が黒く丸く大きかったのも一因かな)その夜、アミとずっと遊んで、夜も更けて私が寝ようとすると、私の膝上から丸くなって離れないアミ。段ボールに入れても、すぐに自分の膝元に来て丸くなる。そりゃあ、すぐに親元から離されて、さびしくて、心細いのもわかると思い、膝元で眠るのを待って、深夜、ゆっくりと段ボールへ戻し寝かしつけました。そんな寂しがるアミを見て、これから、親は私たちなのだと強く思ったのを今でも覚えています。

大学に入学した私は受験から解放され、遊びたい盛り。そんな中、母がアミの散歩を命じてくるのを私は煙たがることもありました。今となっては、母、アミ、が共存する貴重な一年でありました。

1999
2
母が他界(享年52歳)。アミと入れ替わるように逝ってしまった母。その日からアミは母の忘れ形見となりました。ガンを宣告されてから2カ月弱で逝ってしまった母。あまりに唐突なことで現実として受け止められず、実感がなかなか持てなかった私。そして、大学の春休みが終わり、家でひとり支度をして登校する前に、静かな部屋で仏壇の前で手を合わせた時、私は仏壇の前で大泣きしました。春休み前にはいた母が春休み明けにはいないという、本当に母の死を実感できたのがその時でした。そんな私をアミはそばにいて見てくれていました。そして、母の代わりに、私を玄関で見送ってくれました。13年間、アミは私たちを見送り、お帰りと出迎えてくれたのでした。(人のいない家でも、帰ればいつもアミが尻尾を振って出迎えてくれました。)

2000

私は精神的に不安定になった時がありました。私が誰のどんな言葉も受け付けない時、アミだけが私の味方だと思った時もありました。立ち直れたのはアミだけはなく、支えてくれた皆さまのおかげだと思っていますが、いつもそばで変わらずそばにいてくれるアミの存在はとてもとても大きかったです。

大学時代全般
父と長男の三人暮らし、そしてアミ。(しばらくして長男も家を出て、父とふたり暮らし)ひとりでご飯を食べることもしばしば。それでも、膝の上に顔を乗せてきておねだりするアミがいるだけで食卓でも笑顔になれました。一方で、毎日、夕方のアミの散歩のために帰らなければならない私は、正直、自由奔放なキャンパスライフをおくる友人を羨ましく思ったこともありました。しかし、寝る時も一緒(同じ布団で)、起きる時も一緒、ご飯を食べる時も一緒、音楽をしている時も一緒、何をする時もいつもそばにいたアミは本当に家族でしたし、今思えば、アミと私が常に密着していた本当に「アミまこ」な生活だったと思います。いい思い出です。アミを中心に回っていたそんな生活だったので、東京の大学の友人とは遊ばず、地元の友人と遊ぶことの方が多くなりました。(散歩の後遊べるし、アミのいる家にすぐ帰れるから)今、大学内の友人は多くはないですが、地元にはたくさんの友人がいます。(草野球チームもそんな表れだと思います。最近参加できてないけど。。)アミ中心のそんな生活は、アミと常にいる生活ということで、よりいっそう私をインドアにさせ音楽に没頭させました。趣味レベルではありましたが、その頃に自宅録音で曲を何曲も書きましたし、音楽理論とかも勉強したり、独学でピアノも弾いたりしていました。そして、アミはいつもそばにいました。(いつも私の後についてくるから)私のピアノを聴きながら、すやすやと眠りについているアミを見た時は、ちょっとは私のピアノも聴けるレベルになったかなと微笑ましく思ったものでした。そんなアミと音楽との時間が、今の私の礎になっているのかもしれません。
アミがいたから、仲の良い地元の友人が増え、音楽に没頭する時間も増え、音楽力がついた。全部、アミのおかげですね。

2002
年~
某CM制作会社に入社し、常時一緒だったアミとの生活が終わります。仕事のため家を空ける時間が多くなったため、家の中で生活をしていたアミを心引き裂かれるような思いで、外に出して飼うことに。(平日の散歩は近所の人にお願い)徹夜ばかりの生活でした。終電で帰れる、今日は家に帰れるというだけで喜んでいたような生活でした。終電で帰ると、深夜の1時くらいの帰宅。暗いリビングに明かりをつけると、縁側でアミが尻尾をふってきゅーんきゅーんと鳴いて私の帰りを喜んでくれました。屋内で飼っていたのに、急に外に出されて不憫なアミだと思っていた私は、終電で家に帰れた時はいつも、手綱でつながず、ノーリールでアミを深夜の散歩に連れて行っていました。(ほんとはいけないんですが、アミは私の後についてくるので)
そして、星空を眺めながら近所を二人で一周して帰って、「アミ、ごめんね、おやすみ」って言って床につくのが私が家に帰れた時の日課でした。(庭で放し飼いしていたアミはこの時期、何度も脱走して、数キロ先の里親のもとにひとりで行ったりしています。本当にさみしかったのでしょう。)

そういえば、会社時代、アミをCMに出演させたこともありました。(日立のCMで養老孟司が出演しているやつです。)世田谷のスタジオまではるばるアミを車に乗せて連れていきました。スタジオで、知らない場所、知らない人たちに囲まれて、頼れるのは私だけのアミは私のそばから一瞬も離れませんでした。私が大をしにトイレに行くと、トイレにまでついてきてしまったものでした。(扉の外できゅーんきゅーんと鳴くアミ)

2005
年頃
父が再婚。アミのことを愛して、かわいがってくれる家族(義母と義姉)が増えます。最初、義母たちのアミへの対応だけが本当に気がかりでしたが、そんなことも杞憂に終わり、義母たちのアミへの愛を感じれば感じるほど、私と義母との距離も縮まっていきました。今となっては、誰よりも義母がアミを愛していたのかもしれません。それくらい愛情を注いでくれる義母たちの姿に私は心の底から嬉しさを感じていました。本当に本当に感謝しています。

まる3年務めた会社を退社。パソコンを買うところから、ほぼ一からの音楽の再スタートを切ります。実家暮らしではありましたが、アルバイトとか特にせずに、貯蓄を切り崩しながらの音楽生活。ここからまた、アミと音楽の生活が始まります。毎日を部屋の中で音楽のための時間に費やします。小さい頃から英才教育を受けて音楽の夢を追う人なんていっぱいいるわけですから、脱サラの20代後半スタートの私は本当に焦りながら、24時間音楽に没頭しました。毎日引きこもるような生活ではありましたが、夕方のアミとの散歩が唯一、私のリフレッシュタイムでもありました。(アミが私を外に連れ出してくれる?)先日の記事でも書きましたが、ブログもこの頃のスタートですね。ブログの名前を考える時、一瞬で決まりました。アミとまこで「アミまこ」だと。本当にアミまこな生活でしたから。
未だ屋外生活(たまに、つながれたまま、縁側の屋内にちょっとだけ入れた程度)だったアミを家の中で再度飼うことができるようになったのは実はこのブログのおかげでした。ブログ用にいろんなシチュエーションのアミの写真が欲しいという名目で義母と画策して、アミを家の中にいれる回数をどんどん増やしていきました。結果、いつの間にか家の中で生活するようになっていたアミ^^(よかったよかった。謀をしたことはごめんなさい)

このようにアミは屋内だったり、屋外だったり、人間の都合でどんどん環境を変えられても、何も言わずに立派に対応していきました。
誰が教えたわけでもなく、トイレの時は窓をノックして開けてくれと私たちに合図し、開けると庭で用をたしていました。失禁などせず、最期の最期まで、自分でトイレに行っていました。

アミまこ最初の記事
http://gata.blog.so-net.ne.jp/archive/200505-1


2007

初めて、私が実家を出ることに。初めてのアミ離れ。安心して家を出ることができたのも、父や義母や義姉がアミを本当にかわいがってくれるからでした。この時から、アミの写メールを逐一送ってもらいながらのブログ更新になります。
そして、正月や連休意外もちょくちょく帰省する生活が、今にまで続きます。帰る回数は多いけれども、地元の友人たちに会うよりもアミとの時間を優先して、家からなかなか出ない私。実家から東京に戻る時はいつものように玄関先までお見送りをしてくれるアミとハグをして出て行く私でした。

ついこの間の329日(火)の出かける時のハグがまさか最後になるとは思いもしませんでした。

3
27日(日)は実はTOKIOの日本武道館でのライブの予定でした。(家族を連れていく予定でした)しかし、地震の影響でライブが取りやめになり、スケジュールを空けていた私は、ライブが無くなったのなら、実家に帰ろうということで、27日に帰省しました。(これも巡りあわせかも)帰ると、いつものようにアミが尻尾をふりながら私を出迎えてくれるものの、少し元気がないかなと思いました。その時、初めて、家族から前日にアミが倒れたことを知らされます。(家族が私を心配させまいと当日には言わず)だから、ずっと横になっていたアミが私を出迎えてくれたことに家族が驚いていたようです。もちろん、ものすごく心配になりましたが、お医者さんが何度も診てくれているということもあり、一抹の不安はありながらも、安心はしていました。その夜、いつも最後に床につく私は、家族が寝静まった頃、リビングで寝るアミを見て、不安が大きくなりました。呼吸音がいつもと違うと。呼吸も浅くて、速い。苦しそうでした。深夜なので、どうすることもできないと思い。私は文字のごとく「手当て」をしてあげました。ずっと、アミの体に手をあててあげたのです。(いい気を送ろうと)何度も起き上がって、寝なおすアミに毛布をかけなおしてあげました。寝なおす時に私をみつめるアミの瞳が今も頭から離れません。(アミ、何が言いたかったの?)朝の6時ごろ、起きてくる父と入れ替わるように私は床につきました。(気になることを書きおきして)
私が眠っている28日の午前中にお医者さんにまた往診してもらうが、栄養剤などの注射を打ってもらい、特に問題はないとのこと。28日もずっとアミのそばにいましたが、やっぱり元気のないアミ。食欲のないアミなんて初めて見ました。そもそも、病気ひとつしたことのないアミでしたから。体に良いと言われる熱光線をあてたりして、とにかく、アミをいたわりました。そして、28日の夜、仕事の電話が鳴り、急きょ、翌29日(火)に私は東京に戻ることになりました。もっと、アミのそばにいたかったですが、類をみないありがたい仕事の話だったので仕方なく。28日の夜は義母がリビングでアミと付き添いで寝ていました。心配な私は、その夜も、手当てをしばらくしました。私のことを気遣う義母の言葉に私は朝日を見る前に床につきました。私が眠っている29日の午前中にもまた、お医者さんに往診してもらい、風邪だと改めて診断されます。29日、昼食をすませ、心苦しくも東京に向かうために家を出ようとすると、ずっと横になっていたアミが少し足元がおぼつかないながらも、また私を玄関までお見送りしてくれたのでした。私は今日はアミのお見送りはないだろうし、しなくてもいいよと心で思っていたので、びっくりしました。今日は来なくていいよってアミに言いました。でも、いつものように来てくれました。いつものようにハグしました。まさか、あれが最後に・・。今、思えば、アミは私に心配させまいと力を振り絞って見送ってくれたんだなと思います。泣けます。本当に泣けます。私が東京に戻ってから、30日、31日と義姉などから経過報告が事細かにメールで送られてきました。前日の31日には少し元気になってきたという報告もありました。後で話を聞いて思ったのは、アミは私だけではなく、父や義母、義姉たちにも最後の力を振り絞って、元気にお別れの挨拶をしていたのかもしれません。(前回の記事のアミの写真だって、元気そうでしょ??)


そして、41日、昼間は義母たちが今年も桜を見に行こうねと話しかけると、アミは尻尾をふっていたようですが、その夜、急に苦しみだしたアミを見て、急いで救命病棟に連れて行こうとする車の中で、アミは父に抱かれたまま息をひきとりました。あっという間です。父からの電話を受け、エイプリルフールであって欲しいとどんなに願ったか。かわいい、かわいいアミがこれから老犬になっていっても、大事に介護していく気満々だった家族でした。そんなことは一切させず、走り去るように逝ってしまいました。「アミは病気をしないで手がかからないねえ」と笑っていた家族でしたが、まさか、死に際まで手がかからないなんて。そして、家族が集まれるタイミングで逝くなんて。アミは本当にかわいくて、かわいくて、そして立派でした。

今は喪失感でいっぱいですが、目の前の仕事を一生懸命こなしています。だって、アミが頑張ってお見送りしてくれたんだから。
こういう時、忙しい方が気が紛れていいとは言います。そうだと思いますが、曲を書く作業は私にとって感情を注入し、感情にうったえるもの。バラードなんか書く時にはとてもこたえます。(元気な曲書くのも大変だけど)データの打ち込みなどの物理的で無機質な作業の時はさっき言ったように多少、気が紛れます。でも、やっぱり、つらいものはつらい。でも、アミが見送ってくれたんだから、がんばらなきゃ、という堂々巡り。

寒暖の差と風邪と老化など、アミの死因ははっきりとはわからないですが、地震の影響が大いにあったと思っています。すべてに敏感な犬はある意味、人間より心身ともにダメージを受けやすいそうです。(動物を飼っている方、労わってあげてください)

母の時もそうでしたが、死に直面すると、本当にいろんなことを考えさせられます。一番思い知らされることは、やっぱり、人生には限りがあるということ。頭ではみんなわかっていることだけど、これはなかなか実感としてはわかりにくいこと。母の死がなければ、私は音楽というリスキーなことにチャレンジしていなかったかもしれません。やろうと思うなら、やろうと。だって、いつ終わるかもわからない人生だから。アミの死では何を考え、何を学んでいくのだろう。今思っていることは、後悔のない人生なんてないということ。アミと接している時、たまに、アミの死のことを考える度に悲しくなりつつも、アミが死んだ時にアミによくしてやれたと思えるように全力で愛したいと思ったものでした。そんなことを思ってはいたものの、今は「あの時ぶたなきゃよかった」とか「あの時ああすればよかった」とか、どうしてもそう思ってしまい、つらくなります。こういう後悔の念は母の時にもたくさんありました。たぶん、今後、大切な人を亡くしても、こういう思いというのは必ずするのだろうなと、アミの死で改めて思いました。どんなに、どんなに愛しても、たぶん、最期はこういう思いになるのでしょう。でも、私は思いました、必ず、そういう後悔の念に行きつくものだとしても、今いる自分は、少なからずその後悔の数や量を少なくすることのできるチャンスはあるのだと。無くすことは無理でも、減らすことはできると。だから、いろんなことに対して、もっともっと優しくありたいと思うのでした。横にいる人、大切な人、その人の死を考えれば、おのずと優しくなれるでしょう。やっぱり、生と死をなくして、愛は語れないかもしれないと思います。「後悔を無くすことは無理でも減らすことは」なんて、なんか、ネガティブな発想かもしれませんが、結構、私にとっては大事かなと思います。

母の死で、三男坊で甘えん坊だった私は強くなりました。アミの死では、強いだけじゃなく、上のように多くを感じとって、人間として少しでも成長ができればと思っています。そんな立派なことを言っておきながら、悲しみに打ちのめされているのが実情ですが、母の元に逝ったアミは、母と一緒に雲の上から私たちを見守ってくれていると思えば、がんばれると自分自身に言い聞かせています。

そういえば、もうひとつ、アミの死で、改めて感じたことがありました。大切な人たちの死は自分自身の死への恐怖を和らがせること。だって、自分が死んでも、アミやみんなが出迎えてくれるからこわくないでしょ。人間って、こういうふうに死と向き合いながら、歳をとっていく(死にむかっていく)のかなと思います。もちろん、やりきりましたとあの世でアミに報告ができるように今を生き抜かなきゃとも思うわけです。今はそんなことを考えながらの日々です。

アミの前ではたくさん泣きました。泣くことができました。(家族もだそうです。)
アミはたくさんの悲しみを受け止めてくれました。そして、たくさんの笑顔を私たちにくれました。

すべてのマイナスを背負い、プラスを発していました。
ちょっとくらい恩返しがしたかった。(これからの人生が恩返しと考えるしかない)

アミは震災で大変な方々の悲しみも一緒に持って逝ったのかもとそう願ったりもします。

家族でかわいがっていたアミでしたが、今思えば、逆にアミが私たちを愛してくれていたのだと実感しております。

そういえばアミという名前は母がつけたもので、由来は「小さな宇宙人アミ」という本からとったものでした。この本は絵本のようなお話の進め方ではありますが、小さな宇宙人アミが宇宙を飛び回りながら、愛について語るというもの。この本のようにアミは私たちに愛を教えてくれたと思います。かなり昔に読んだ本ですが、もう一度読み直そうと思います。興味のある方は読んでみてください。実家に本はありますので、お貸しすることもできますよ。(ちなみに三冊あって、三部作です。)

アミ 小さな宇宙人 










思ったとおり、乱文で長々と書いてしまいました。すみません。

記事を書きながらも時折、こみ上げるものがありましたが、吐き出してちょっと楽になりました。お付き合いありがとうございます。

言葉を発せないアミは言葉とかではなく、その存在で私たちに愛を示してくれました。その存在は今は目に見えませんが、その存在を感じとりながら、私は生きていきたいと思っております。

アミ、ありがとう。本当にありがとう。

アミまこという名前だけに、ブログの継続を悩みましたが、兄にも言われ、なんとか続けていきたいと思います。私が立ち止まらないことをアミも望んでいるでしょう。

そういえば、2日の夜、さっそくアミが夢に出てきました。最初、苦しそうに横になっていたアミですが、私が体をさすると、急に元気になって、私とアミをつなぐ手綱をぐいぐい引っ張って走り出したのです。夢でもアミは私を引っ張ってくれました。その気持ちに応えたいですね。

徐々にではありますが、元気を出していけたらと思います。

ではでは

アミ、さよなら、また会う日まで。
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5929519.jpg
かわいいアミの写真がたくさんあるので遺影が決められません。
とりいそぎ、リビングに飾ってあったこの写真が遺影代わりになっています。


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ほりー

久しぶりに遊びに行っても、アミは僕のことを憶えていてくれましたね。
つい昨日のことのように憶えています。
うちのチビとシロが続けて亡くなった時、僕も大泣きしました。
ガタもよく吠えられてたよね。

胸にポッカリと穴が空いた感覚・・・・
自分より短い生命の動物を飼うことの宿命ではあるけど、やっぱり辛いよね。
でも、残された人は前に進むしかないんだよね。
ガタは音楽に。僕はむにょむにょに。

格好いい言葉なんて全然浮かばないけど、
「アミの分まで頑張ろうよ。」

それが最高の弔いだと思うよ。
by ほりー (2011-04-06 03:10) 

ガタ

ありがとう。

チビとシロ、なつかしいな。
二匹が亡くなった後、ここまで進んできたんだね、えらいな。
(アミの死で改めて、こういうのを乗り越えたあんたはすごいと思うよ)

後ろに歩けるものだったら、歩きたいけど、それができないから、前に歩くことにするよ。そうするしかないもんね。

アミが上で見てくれてると思って、頑張るよ。

また近々。
by ガタ (2011-04-06 04:33) 

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